(13)21歳と31歳

「フェリシアーノ」
 静かに呼びかけられて、その時が来た事を知る。
「はい、ルートヴィッヒ」
 覚悟は出来てるよ、と言葉に滲ませると、男は微かに頷いた。
「まずはお前から預かっていた、例の書類だが」
 かさ、と音を立ててスーツの内ポケットから取り出された封筒に、フェリシアーノは表情を硬くした。

(まだ、持ってるんだ。ーーまだ、私は『娘』、なんだ)
 それが、貴方の答えなのか。

 そう訊きたいけれど、言葉が出ないまま見つめるフェリシアーノの目の前で、男は封筒を開けた。

「今日、役所に提出しにいって、受理された。今お前の名前は、フェリシアーノ・ヴァルガス。そして俺は、お前の父親ではなくなった」

 封筒から三つ折りにされた書類を引き出してそう言ったルートヴィッヒの顔を、多分5秒はぽかんと見ていたと思う。

「え、ルーイ、それって」

 でも、じゃあ、その紙は、なに。

 テーブルの向こう側でも、その紙に市の紋章が刷り込まれている事くらいは見える。
 そして、その枠取りが、先日自分の渡した書類に酷似している事も。

 書類が受理されたというのなら、その書類がここにあるのはおかしい。それとも何か別のーー?

「フェリシアーノ。フェリシアーノ・ヴァルガス」

 動揺した心を表す様に揺れていたフェリシアーノの瞳が、ようやく自分をまっすぐ映すのを確認して、ルートヴィッヒはそっと手を伸ばした。
 テーブルの上に置かれた、楽器を操るときには軽やかに、楽器の手入れの時には慈しむ様に動く、自分のそれよりも随分華奢な手を、そっと握る。
 ぬくもりに肩を揺らして自分を見たフェリシアーノの頬が、じんわりと紅く染まりだす事に勇気を貰って、ルートヴィッヒは口を開いた。

「あの日、俺を愛していると言ってくれた気持ちは、まだ変わっていないだろうか」
 祈る様な気持ちでそう尋ねると、目の前の人はこくりと頷く。
「なら聴いてくれ。俺はーールートヴィッヒ・バイルシュミットは、多分お前が音楽学校の寮に入る前から、お前の事を愛していた。娘としてではなく、1人の、女性として。でも、お前は若いし、何より俺は父親だし十も年が離れていて、あぁいや、違うんだ、そうじゃない。 ただ俺は・・・怖かったんだ」
 目の前の、小さい頃からずっと見て来た人物が、今まで見た事も無い様な切ない表情で、自分の手をぎゅっと握ってくるのを、フェリシアーノは半ば呆然と見ていた。
(怖かった・・・)
 それは、自分も同じ。

 相手は自分を娘としてしか見てない。
 子供すぎて相手にしてもらえないかもしれない。
 もし思いを告げて、二度とこの人の笑顔を見ることができなくなったらーーー
 ルートヴィッヒを永遠に失う事を考えて、想像だけで泣いた夜だっていっぱいあった。

 それでも、どうしても、告げずにはいられなかった。

「ルート、ヴィッヒ」
 この目の前の人も、自分と同じ様に怖がっていた。その事実に胸が震えて、握られた手をぎゅ、と握り返す。
(私も、同じだったよ。同じ気持ちなんだよ)
 伝われば良い、伝えたい。
 そう思って握った手に思いを込めていると、ルートヴィッヒが一つ深呼吸をして、また話しだした。

「あの日、お前から、好きだと言ってもらえて、自分でも驚く程幸せだった。お前を失う事に恐れをなして、自分の気持ちから目を背け続けていた俺に、お前は全てをなぎ倒す程の希望をくれたんだ。あの時、養子縁組を破棄してほしいと、お前が言ってくれたから、俺はこうして前に進める様になった。・・・あのまま、何もおこらずに、卒業したお前が一人暮らしを始めるなんて言ったら、いつか無理矢理にでもお前を俺の物にしていたかもしれない。そんな事をしたら、それこそ永遠にお前を失うことになると、分かっていても、だ」
 そこまで言って、ルートヴィッヒは一旦目を閉じた。
 自分の言葉を全身全霊で聴いているフェリシアーノのぬくもりと呼吸を感じて、「だが」と呟きもう一度目を開く。

「今は、もう娘じゃない。父親じゃない。俺はお前を愛していて、お前も俺を好きだと言ってくれた、だから言わせてくれ」

 一つ浅い息を吸って、

 男は言った。


「フェリシアーノ。もう一度、フェリシアーノ・バイルシュミットになってくれないか」


 言葉と同時に、自分の目の前に差し出されたその書類が何であるかを読み取って、フェリシアーノは目を見開いた。
 自分が用意した用紙と、枠取りは似た様なその紙の、最初に書かれた三文字を、ぽつりと呟く。

「婚姻、届・・・」

 その声にルートヴィッヒは浅く頷いて、言葉を続けた。
「娘としてではなく、妻として。お前に、フェリシアーノ・バイルシュミットを名乗ってほしい。ーー結婚、して下さい」

 最後の台詞と同時に、フェリシアーノの目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
 言葉にならないけれど、どうにか伝えようと、必死に頷きながら涙を流す女性を、そっとテーブルを回り込んだルートヴィッヒの腕が包み込んだ。
 自分を包み込む愛しいぬくもりに、フェリシアーノも泣き笑いになりながら腕を回す。しゃくり上げるばかりで言葉は出ないけれど、2人にはそれで十分だった。







 どのくらい、そうやって抱き合っていただろう。
 涙が止まり、呼吸も落ち着いた頃、ルートヴィッヒの腕の中で、フェリシアーノはぽつりと呟いた。
「夢みたい・・・」
 その言葉に、それまで黙って抱きしめていた腕の力を緩めて、ルートヴィッヒがその顔を覗き込む。
「夢みたい、か?」
「うん。幸せすぎて、目が覚めたらやっぱりまだ、ルーイの娘なんじゃないかって思っちゃうくらい」
 くす、と笑ってそういう女性の頬に、そっと手を添えて自分の方を向かせると、フェリシアーノはまだ少し涙の残った目をぱちぱちと瞬いた。
「ルーイ?」
「夢なんかじゃ、俺が困る。娘にはこんな事出来ないだろう」
 言って、目の前の唇にちゅ、と口づけると、フェリシアーノの顔がまたへにゃりと歪む。
「おい、また泣くのか?全く、目が溶けるぞ」
「うー。だ、だって、ルートヴィッヒがいきなり、その、キ、キスとかするから」
 真っ赤になった顔を隠したくても、両手で上を向かされていては、伏せることもできない。
 そんな相手にふ、と笑って、ルートヴィッヒは額をこつんとくっつけた。

「じゃあ今度はいきなりじゃなくて、ちゃんと訊く。ーーキスしてもいいか?」
「・・うん。して、いっぱいして」

 囁く様な声でも、返事がちゃんと耳に届く距離。
 ゆっくりと閉じられた目蓋に誘われる様に、唇を落とした。