(11)21歳と31歳

「んー」

 ぱっ、とすぼめていた唇を開く。グロスを塗った唇が、鏡の中で潤いを放っているのを見て、女性はにこ、と笑顔を作ってみせた。
「よし!」
 勢い良く振り返ると、背後の机の上に置かれていた楽器を手に取る。
 黒の胴体に、銀色の金具がきらめくそれは、誕生日に初めておねだりして買ってもらった楽器。何度かオーバーオールしたり、金具を換えたりはしているが、 長年大事にしてきたパートナーだ。

「さぁ、行こう。頑張るからね、よろしくね」

 祈る様にクラリネットの胴体に軽く額を寄せて、顔を上げると、フェリシアーノは控え室の出口へと向かう。

 深緑のロングドレスが、足下でさらりと揺れた。



 音楽学校の卒業式は、卒業生によるそれぞれの演奏で締めくくられる。
 フェリシアーノは室内四重奏の一員としてその舞台に立った。自分以外の三人とは、色々な所で競演した事がある、気心の知れたカルテットだ。
 客席に見逃すはずの無いオールバックの金髪を認めて、フェリシアーノの鼓動が少し早くなる。

(これが、終わったら)


 返事が、もらえる。


 そう思うと、別の緊張で手が震えそうになった。かたた、と震えた楽器を持つ手を、左手で押さえて深呼吸する。
(落ち着け、落ち着け。私にはその前に、やる事があるんだから)

 自分にあらゆる幸せをくれた彼に、今自分がしうる最高の演奏を。
 四年間の集大成を、持てる全てを以て、彼に届けたい。


 目を閉じて、もう一度深呼吸。
 ゆっくりと目を開けて、自分と共に弧を描いて座る三人と視線を合わせて。


 バイオリンの弓と呼吸を合わせ、四人が織りなす柔らかな和音が、会場へと流れ出した。


 モーツァルトのクラリネット協奏曲。幼い頃の自分が、ルートヴィッヒにねだってかけてもらっていた曲を、今自分が演奏している。
 並んで座るメンバーと目で合図をし、息を合わせて音を紡ぎだす。
 
 ただひたすら、音楽の事だけを考えて演奏した7分間は、あっという間に過ぎ去った。

 最後に全員で一つの音を奏でて、曲は終わる。
 音の余韻が会場に満ちて、一拍空いた後。

 割れる様な拍手が、4人を包んだ。

 演奏を終えた友人達と顔を見合わせて立ち上がり、笑顔で観客に礼をする。
 頭を上げて巡らせた視界の真ん中で、ルートヴィッヒが誇らしげな笑みを浮かべて、手を叩いていた。

(届いたかな。私の、今出来る最高の演奏が、彼に届いていればいい)

 最後にもう一度会場に礼をして、フェリシアーノは舞台袖へと向かう。あたたかな拍手が、その背を押してくれていた。




「おつかれさま!」
「お疲れー!よかったよ!」
「おつかれ。流石、良い演奏だったな」

 舞台裏には、先に演奏を終えた同級生や先生達が待ち構えていて。
 4人はそこらから飛んでくる言葉に笑顔を返しながら、楽器を手入れするため控え室へひっこんだ。

 楽器の中に着いた水滴を拭き取って、金具の調節をし、全ての部品を綺麗に磨いてケースに収納する。
 舞台用に派手にしていた化粧を落として、いつものメイクに戻し服を着替えれば。
 鏡に映るのは、いつもの二十一歳の自分。

(終わったんだ。・・・終わって、しまった)

 卒業演奏が終わったら。
 彼からの、返事が貰える。

 期待と不安が胸の中で嵐の様に渦巻いて、フェリシアーノは鏡の前で両手をぎゅっと組んだ。
 祈りにも似たその姿のまま、深呼吸を三回。

「よし!」

 気合いを入れて、自分の荷物と楽器を取ると、フェリシアーノは控え室のドアを開けた。




 会場の前には、卒業生同士や後輩・家族と記念写真を撮る人々があふれていた。自分自身も何人かに誘われて写真に収まりながら、求める人影を探す。
 きょろきょろと周りを見渡すフェリシアーノは、横からかかった声にくるりと振り向いた。

「よぉ!お疲れさん」
「フェリちゃん良かったでー!俺感動して泣きそうやったわ!」

「兄ちゃん!フェルナンデスさん!来てくれたんだ」
 思わず駆け寄ると、照れた顔の兄から、まぁ、なんだ。一応祝い事だしな、と小さな花束を差し出される。それを受け取って、妹はふわりと微笑んだ。
「ありがとう!二人に聴いてもらえて、本当に嬉しいよ」
 その笑顔に、「あーもう可愛えぇなぁ!」と抱きつこうとするフェルナンデスを後ろから一発で鮮やかに蹴り倒して、ロヴィーノが言う。
「俺たちは明日の夜の便で帰る予定なんだ。今夜一緒に飯食いに行くか?」
 おごってやるよ、と誘う兄に、フェリシアーノは花束をぎゅっと握って困った様に笑った。
「えっと、今夜はーー」

「すまない、今夜の食事は二人で予約してしまったんだ」

 突然後ろからした声に肩を抱かれて、フェリシアーノは驚いた顔で振り向く。自分の両肩に手を置いて立っていたのは、先ほど自分が探していた人物で。

「探したぞ、フェリシアーノ。さっきの演奏、素晴らしかった」
「おー、保護者登場やん。卒業おめでとさん」
「・・・つか俺ら来るの知ってて予約二人にすんなよな」
「こらロヴィーノ!ええやん、明日の昼もあるし。ルートヴィッヒだって会うの久しぶりなんやろ?」
「あぁ。申し訳ないとは思ったんだが、久しぶりにゆっくり話をしたくて。すまない」
「まぁ・・明日もあるし」

 頭上でやり取りされる3人の会話を聞きながらも、心臓は早鐘の様に打っていて、フェリシアーノはひたすら兄から貰った花束を見つめていた。
(二人で、食事・・じゃあ、その時に・・?)
 誕生日に告白した時は、後から思ってみれば結構脈ありなんじゃないかと思う対応だったけれど、本当の所なんて実際聞いてみなければ分からない。

「じゃあ、明日の昼は一緒しようなフェリちゃん!」

 ぽん、と頭に乗せられた手にはっとして顔を上げれば、にこにこと笑うフェルナンデスとその隣の兄の顔が視界に入る。
「あ・・う、うん。あの、来てくれてありがとう!」
 軽く手を上げて去ってゆく二人の背中に言うと、振り返った二人が手を振ってくれて、フェリシアーノも笑顔で手を振り返した。

 二人の背中が人ごみの向こうに消えて、降っていた手をゆっくりと下ろす。
 腰の所まで降りて来たその手を、大きなぬくもりが包んだ。
 びく、と肩をふるわせて隣を振り仰ぐと、自分を見つめるすみれ色が優しく微笑んでいて。

「卒業おめでとう、フェリシアーノ」

「あ、りがとう、ルートヴィッヒ」

 顔を真っ赤にして、ぎこちなく言葉を返す娘に、ルートヴィッヒはこらえられずに吹き出した。
「どうしたんだ、演奏の時より随分緊張しているように見えるが」
「だ・・だって、卒業したら」
 心臓がどきどきしすぎて、それ以上言葉にならない。ぐ、と唇を結んでルートヴィッヒを見上げると、男は少し驚いた顔の後に、無言でフェリシアーノを抱き 寄せた。

「ル・・ルートヴィッヒ!?」

 突然の行動にわわわ、ともがくと、意外にもぬくもりはあっさり離れて行って。その事にちょっとがっかりしつつ、フェリシアーノは紅くなった頬を両手で冷 やして問いかけた。
「ど、どうしたの突然。心臓止まるかと思ったよ」
 問われた本人はといえば、
「いやすまん、つい。あぁホラ、ローデリヒ達も来てるぞ。心臓が止まる前に皆と写真を撮って来た方がいいんじゃないか?」
 そう言ってフェリシアーノの肩に手を乗せて、その身体をくるん、と回す。
「え?・・え?」
 何なに、と振り返ろうとする娘の耳元で、ルートヴィッヒが囁いた。

「今夜六時に部屋に迎えに行くから。『お父さん』と『お母さん』にしっかり挨拶しておけよ」

 囁かれたという事と、その内容に、再び肩をふるわせて振り仰ごうとしたフェリシアーノだったが、近づいて来た声に名前を呼ばれて、結局そちらに視線を向 ける。
 人ごみをかき分けてこちらへ向かってくる人影は、
「エリザベータさん!ローデリヒさん!」

「フェリシアーノ、卒業おめでとうございます」
「さっきの演奏、とっても素敵だったわよ!ドレスも似合ってたし」

 久しぶりに会う養父母の姿に、フェリシアーノの顔が輝いた。
 卒業記念にとプレゼントを手渡す義兄の向こうで、表情は笑っているが幾分剣呑な光を宿した瞳が自分を見ているのに気付いて、ルートヴィッヒは姉に小さく 頭を下げた。

「それで、今日の夜の予定は空いてるのかしら?」
 にやりと笑ってそういうエリザベータに、弟は小さくため息をつく。
「俺だって久しぶりに会ったんだ、今日くらいゆっくり話をさせてくれ。二人は明日もこっちに居るんだろう?」
「そうよね、ゆーっくり話したいわよねごめんなさい私ったら。じゃあ明日の朝ご飯は一緒に食べましょ、良いわよねフェリシアーノ?」
 にこやかにそう言うエリザベータに、ルートヴィッヒの頬がぴくりと引きつった。
 そんな弟の顔を見て満足げなエリザベータを、フェリシアーノは不思議そうな顔をして見ている。勘弁してくれ、とルートヴィッヒがいおうとした時、黙って みていたローデリヒが口を開いた。
「エリザベータ、その位にしておあげなさい。フェリシアーノ、明日の昼食はいかがです?」
 はぁい、と少し唇を尖らせて黙った姉を見て、ルートヴィッヒは義兄に深々と頭を下げたくなった。目立つので軽くにとどめたが。
 そんな男の心中を知るはずも無く、フェリシアーノは笑顔で応える。
「あ、えっと、明日のお昼は兄ちゃん達と一緒にって言ってたので、よかったら一緒にどうですか?兄ちゃんも喜ぶと思います!」
「そうですね、彼からも久しぶりに色々話を聞きたいですから」
 そうしましょう、と予定を決めて、記念にと数枚写真を撮ると、二人はローデリヒの知り合いだという人物に声をかけられて去って行った。

 人ごみの向こうに消えた人影に、思わずふぅ、と息をつくと、自分に背を向けていた女性がくすくすと笑って振りかえる。
「ルートヴィッヒはさ、昔からエリザベータさん苦手だよね」
「・・・まぁ、得意ではないな。姉という生き物は」
「でも好きでしょ?ルートヴィッヒの作るグヤーシュ、エリザベータさんと同じ味がするもん」
 やっぱり家族って素敵だよね!

 そう言って花の様に笑う娘を、またも衝動的に抱きしめてしまいそうになったルートヴィッヒを制する様に、フェリシアーノの名を呼ぶ声がした。
 卒業生で集合写真を撮るのだというその声に、フェリシアーノは手中の花束やプレゼントをちら、と見て途方にくれた顔をする。
 そんな相手に苦笑して、ルートヴィッヒは手を伸ばしてそれらをひょい、と取り上げた。

「行ってこい、これは寮に届けておくから。管理室に預けておけばいいだろう?」
 六時に迎えに行くから、それまで友達と話したりしておいで。
 そう言って背中を押すと、一歩踏み出したフェリシアーノは少し紅くなった顔で一つうなづいた。

 自分を手招く友人の元にかけよる後ろ姿を見送りながら、ルートヴィッヒはジャケットの胸元を抑える。

 内ポケットからかすかに、かさ、という音がするのをきいて、男は小さく微笑んだ。