(4)17歳と27歳
「これ、を・・・オ、わたしに?」
いつものオケの練習場。
練習が終わってから、名前を呼ばれてその人の元へ行くと、説明と共に一式の書類を手渡された。
手にした紙を半ば呆然と見つめ、次いでそれを手渡してくれた人を見やれば。
目尻に皺を寄せた、壮年の指揮者が、深い眼差しで自分を見ている。
「君にこそ、ふさわしいと思ったからね。ーーーよく、考えて、相談してきなさい」
君には、その価値がある。
「・・・・・・・・はい!」
オーケストラの指揮者から手渡された書類を、フェリシアーノはぎゅっと握りしめた。
(これは、チャンスだ)
演奏家としても、自分の野望の為にも。
このチャンスを、逃す訳にはいかない。
『入学案内』と書かれた書類を、フェリシアーノは大事に鞄の底にしまった。
「・・・音楽学校に?」
「そう。州立の音楽学校の、クラリネット科に入ってみたらって、コンダクターが」
家に帰って、開口一番言い出したいのを我慢して、夕飯の後、落ち着いた頃。
フェリシアーノは、鞄の底から例の書類を取り出して、ルートヴィッヒに手渡した。
「・・・フェリシアーノは、どうしたいんだ?」
やっぱり。
どんな時でも、ルートヴィッヒはまず、自分の意見を訊いてくれる。
それが聞き入れられる事もあれば、却下される事もあったけれど、自分に訊かずに決めることは今まで一度もなかった。
(そんな所が、とても好きなんだ)
「オレは・・行ってみたい。クラリネットの勉強を今以上にしたいし、上手くなりたい。でも、お金もかかるし」
「バカ、金の心配なんかするんじゃない。ーーー しかしそうなると、ここから通うのは無理だな」
ぽん、と頭に載せられた手とその台詞に、どくん、と心臓が跳ねた。
そう、それが、この学校を選んだもう一つの理由。
州立の音楽学校は、この街から少し離れた大きな街にある。
入学するのなら、必然的に寮生活となるのは分かり切ったことで。(流石にもろとも引っ越す、などというバカな事を言う人じゃない)
この家を出て、一人で学校に通い、勉強をして、出来る限りの努力をして。
養護されるだけの子供で無くなったとき、初めて、自分に言う資格が与えられる気がするのだ。
貴方が、好きだと。
だから、この入学は、そのための第一歩。
「入学試験で良い成績を取れたら、特待生になれるかもしれない。そしたら学費はかからないし、今までレストランでバイトしてた分があるから、ある程度の生活費はまかなえるよ。だから、お願い。受けさせて」
17才の子供に何が出来ると笑われても仕方ないけれど、フェリシアーノは出来るだけ、自立したいと思っていた。
それは、生活面でも、金銭面でも。カリエド家できちんと仕事をこなし、当主と共に働く兄の様に。
「・・・もちろん、お前がしたいと言うのなら、俺は応援する。ただし、折角学びに行くのだから、学業は絶対に疎かにするな。アルバイトは必要ならすればいい、しかしその所為で学業に支障を来すようなシフトの入れ方はするなよ。・・・まぁ、解ってるだろうけどな」
ちなみに言っておくと、俺は半分以上仕事が趣味みたいな人間だから、お前が使ってくれないと貯金が増える一方だ。
そういって苦笑する瞳には、自分への心配と信頼が溢れていて。
「あ、りがとう。ルーイ兄」
胸の奥からぎゅぅ、と締め付けられる様な感じがして、フェリシアーノは自分の声が少し震えるのを感じた。
それから数ヶ月、フェリシアーノはそれはもう頑張った。
朝から晩まで練習と勉強に明け暮れて、自信と気合いを持って臨んだ試験の結果。
特待、とまではいかなかったものの、半特待の切符を手に入れた。
そして、夏は過ぎて。
「荷物は、これだけか?」
「・・・うん」
フェリシアーノが家を出るときがやってきた。
「・・・随分と、少ないな」
トランク一つと、クラリネットのケース。
フェリシアーノの荷物は、それだけだった。
それを見て言った言葉にも、フェリシアーノは笑ってみせる。
「ここに来たときと、同じだよ。クラリネットが増えたくらい。・・・服とか、本とかは、おいおい運ぶね」
それじゃあ、時間だから。
最後に一回だけ、と見上げてくる瞳に、ざわつく心を押し殺して、ルートヴィッヒはその細いからだをぎゅっと抱きしめた。
「最初にうちに来たときには、膝をつかないとハグもできなかったのにな」
自分の肩口にある榛色の髪に唇を寄せて言うと、くすくすと笑う振動が、直に身体を揺らす。
「子供の成長は早いのですよ、おじさま。ーーー今に、ビックリするような美女になるんだから」
「それは楽しみだ。・・・時々、成長ぶりを見せに来いよ」
いつでも、待ってるから。
返事は、ぎゅっと背中に回された腕がかわりに言っていた。
「それじゃ、行ってきます!」
「あぁ。身体に気をつけて、勉強頑張れ」
身体を離して、にこ、と笑って。
颯爽と背を向けた背中は、通りを曲がる時に一度だけ振り向いて、大きく手を振った。
こうして、ルートヴィッヒは数年ぶりに一人暮らしに戻ったのだった。