(9)21歳と31歳
「・・・・・・・・・・・・今、何と」
「養子縁組を、破棄して欲しいと言いました。ルートヴィッヒ、私はあなたの娘では、ありたくない」
「な・・・・・何を、言ってるんだ・・・・?」
真っ青になった男の顔が少しずつ表情を変えるのを見て、フェリシアーノは必死に言葉を紡ぎだした。
「怒らないで最後まで聴いて!ルートヴィッヒを嫌いになったとか、この家にいたくないとか、そういう事ではないんだ、絶対に!感謝してるんだ、心から。
兄ちゃんに会いたい、っていう今思えば子供じみた動機の為だけに、オレを引き取ってくれて、家族だと言ってくれた。オレが望んだものを、あなたはすべて オレに与えてくれた。家も、家族も、兄ちゃんとの再会も、教養も、本も、知識も、すべてを。そして、音楽も。
ねえ、ルートヴィッヒ。あなたは、オレがオケに入ったとき、とても喜んでくれたよね。『同年代との関わりを持てば、世界が広がる』と言って、オレを励ま してくれたよね。確かに、あなたの言った通りだった。友達も沢山できたし、いろんな人と知り合いになったよ。そして、いろんな事を知った。人と人の間に、 家族や友達以外の『好き』があることも。オレにも、いつかそんな人が現れるのかな、ってぼんやり思ってた。でもね、ーーー違ったんだ」
一人称が乱れている事が、彼女の必死さを如実に伝えていて。
ふわり、切なげに微笑んだその表情は、最早到底子供とは呼べない。
「フェリシアー、ノ・・・?」
本当に、今目の前に座っているのは、自分の養い子なのか。
そんな疑問すら浮かぶほど、その娘・・・いや女性は、今まで見たことのない顔をしていた。
「違ったんだ、ルートヴィッヒ。私が、ずっと一緒に居たいと思って、でも近くにいるとどきどきしてたまらなくてでも幸せで、抱きしめて欲しいと思う人。
誰にも渡したくない、自分だけを見て欲しいと思う人。キスをして、それ以上でも。全てを捧げたいと思う人は、いつかどこからか現れる者ではなかったん だ」
さあ、ついに告げるときがきた。
自分の心からの想いを、この人に届けるために、もてる想いの全てを込めて。
フェリシアーノは、一旦閉じた瞼をゆっくりと開き、呆然とした顔で自分を見ている男をまっすぐ見つめて、言った。
「フェリシアーノが恋をした相手は、ルートヴィッヒ、あなただった」
あなたを、愛しているから。だから、私はもう、あなたの娘ではいられません。
ろうそくの光に照らされ、神々しくすらある気品を纏い、まっすぐに自分を見て、はっきりと言ったその言葉の意味を、理解した瞬間。
「・・・・・!!」
ルートヴィッヒは、自分の顔が紅くなっていくのを感じ、たまらず手で口元を被った。
しかし相手はそれを、言葉に困ってとった行為だと認識したらしく、静かに言葉を重ねる。
「ずっと娘だと思ってたこんな子供から突然こんな事言われても、困るよね、ごめんね。・・・でも取り消しはしないよ」
そうじゃない、とルートヴィッヒはとっさに思う。
けれど、じゃあどうなんだ、と言われたら返事が出来ないのも事実だ。正直頭が全くついて行けていないのだ、この状況に。
「・・・ッフェリシアーノ」
「今度っ!・・・学校を卒業したら、一人で暮らすよ。少しずつだけど、演奏会の依頼も貰えるようになってきたんだ。それに、ここに居たら、私の事『娘』に しか思えない、でしょ?」
待て待て待て。
既に半周ほど差を付けられた頭で必死に考えているのに、もうその先に進もうとしている相手に、それを伝えることすら難しい。
「・・・その、ちょっと待て」
「もちろん、今すぐとは言ってないよ。在学中は寮でしっかり勉強する。ただ、学校の先生が、卒業後に住むなら、良い物件を紹介するって言ってくれてるん だ。そこで、勉強も、仕事も、ルートヴィッヒにふさわしい女になれるように頑張る。少しずつでもいいんだ、私の事を、そういう目で見て欲しい」
「だから、そういう意味で待てといったんじゃない!」
どんどん自分を置いていく相手に焦りがピークに達し、思わずテーブルを叩いていた。
並べられた食器ががしゃん、と各々抗議の声をあげ、カップに残っていた紅茶が、すこしソーサーに溢れた。
フェリシアーノはと言えば、凍ったように動きを止めていて。
その瞳が、少し怯えた色をたたえているのを見て、ルートヴィッヒは自分の行動を深く反省した。
「・・・・・その、すまん、怒鳴るつもりはなかったんだ。ただ、俺の話も聞いて欲しい」
「・・・・・うん、ごめん。話して」
もしここで、「お前の様な子供は論外だ」とか「絶対にそういう風には見られない」とか言われても、粘る覚悟はとうの昔に出来ている。
伊達に何年も片思いで一つ屋根の下生活やってたんじゃないぞ!と自分を励まして、フェリシアーノは顔を上げた。
「まず、お前が、俺を・・・好きで居てくれている、というのは分かった。それは、間違いなく父親として、とか兄として、とか『おじさま』として、とかそう いうのとは違う、んだな?」
確認作業から来たか。
まぁ普通の反応ではあるが、これに普通に返してもなかなか信じるのは難しいかもしれないな、と思ったフェリシアーノは、わざと言葉を選んで答える。
「それはもう、間違いなく。だって父親とか兄ちゃんとかとエッチしたいとは思わないでしょう?」
「エ・・おま、フェリシアーノ!」
「ヴェー。訊かれたから答えたのに。・・・まあ、怒るとおもったけど、さ。ハッキリ言わないと伝わらないでしょ、こういうのって」
訊きたければ他にも色々あるよ、と言うと、相手はどこか憔悴した顔で、いやもう良く分かったから言わなくて良い。と言った。
そしておかしい何時の間にこんな、俺はそんな育て方してないはずなんだが、などとぶつぶつ言う男に、フェリシアーノは笑ってみせる。
「じゃあ、私の気持ち、分かってくれた?」
「・・・・・ああ」
苦笑して頷く、その仕草にも鼓動が跳ねる事までは知らないかも知れないが、それでも。
「よかった。『勘違いだ』とか、『思いこみだ』って否定されるのが、一番怖かったんだ」
伝えることは出来た。あとは、向こうの出方。
じ、とテーブルの向こうを見つめると、相手はまた、手で顔を半分隠してしまう。
(やっぱり、困ってる、んだろうな)
普段ならば、自分の目をまっすぐに見てくる菫色の瞳が見つめるのは、テーブルの端。
悩んで悩んで、考えて、凄く考えて、決心して伝えた事だけれど、実際こんなに目を合わせてくれなくなる程困らせる事になるなんて、と、自然にフェリシ アーノの視線も下に落ちてゆく。
食卓には、暫く痛いほどの静寂が満ちた。
「フェリシアーノ」
「!」
沈黙を破ったのは、静かに自分の名前を呼ぶ、大好きなバリトン。
「なん、でしょう」
弾かれた様に顔を上げた先に見えたのは、いつものように自分をまっすぐに見る、菫色で。
それを見ただけで、ほっとしたのとドキドキするので涙が出そうになった。
「いくつか、教えて欲しい事がある」
「・・・うん。答えられることなら」
どうしよう、ご飯食べてる時は全然そんなことなかったのに、見られてると思うだけで心臓が口から飛び出しそう!
しずまれ、しずまれ、と深呼吸をして、再びテーブルの向こうに視線を戻す。
「まず、その、いつから・・俺の事が、好きだと思ったんだ?」
「・・・好きだって、気付いたのは、16の時。多分それよりもっと前から、『ルーイ兄』として、じゃない好きがあったんだと思う」
5年も前の事だと言った瞬間、ルートヴィッヒの瞳が少し大きくなった。
「そんなに、前から・・・?」
驚いた様にこぼれ落ちる言葉に、思わず笑んでしまう。
「そうだよ。・・・5年も前から、ずっと。確かに、家族ーーー父として、とかの愛情と混同してるんじゃないか、とか色々考えた。ただの憧れなんじゃない か、とか。でも、オケの他の男の人とか、バイト先で知り合った男性とか、考えてみてもダメなんだ。挨拶のじゃないキスとか、その・・そういう事をした い、って思うのはルートヴィッヒだけだった。
音楽学校に行きたいと思ったのも、もちろんクラリネットをもっと上手く吹ける様になりたい、って気持ちが一番だったけど、それ以外にも。この家を出て、 少しでも自力で生活して、そうしたら、私みたいな子供でも、貴男が少しはそういう対象として見てくれるんじゃないか、って思ったから。上手くいったかどう か解らないけど、私の目標はいつでも、ルートヴィッヒにふさわしい女性、だったよ」
「・・・・そう、だったのか」
その頃の葛藤を思い出す様に言うと、やはり相手は驚いたようで。
何故か少し眩しそうにこちらを見る視線も、ぴんと伸ばされた背筋も、初めてであった頃より落ち着きを増した空気も。
「ルートヴィッヒ、あなたと一緒に生きられるのなら、娘のままでも構わないとも思ったんだ。・・・でも、このままだと、きっといつか『父親としての』貴男 から、結婚しろとかそういう話をされるでしょう?もしくは、貴男に結婚の話が持ち上がってもおかしくない。そう、なったとき。娘として、父親の結婚を喜ば なくちゃいけなくなったとき。・・・私には、無理だと、思ったんだ。絶対に、心からの祝福は、出来ないって。でもそれじゃ、娘でいる意味がない。家族の幸 せを祝福できないなんて、そんなの哀しい。
だから、この書類に名前を書いた。ルートヴィッヒ、貴男を愛しているから、私は貴男の娘ではいられない」
さっきも言ったんだけど、ね。
そう言って苦笑して見せると、ずっとテーブルの縁に置いてあった手が、静かにテーブル中央に伸びた。
かさ、と乾いた音を立てて取り上げられた書類には、既にフェリシアーノの名前が書いてある。
その筆跡をじっと見つめた蒼い目が、静かにフェリシアーノを捉えた。どくん、と音を立てた心臓を自覚していると、その唇が言葉を紡ぎ出す。
「・・・フェリシアーノ。フェリシアーノ・バイルシュミット。お前を大切に思う気持ちの深さは、十年前から、変わっていない。お前は大切な、家族で、同居 人で、娘でーーーだから、お前から養子縁組を破棄して欲しいと言われたときには、心臓が止まるかと、思った。
フェリシアーノは、真剣に考えて、一生懸命俺に気持ちを伝えてくれた、だからこちらも真面目に考えて答えを出したい」
だからその、返事は、もう少し待って貰えないか。
この書類をどうするかは、俺が決めてもいいんだよ、な?
迷いながら、考えながら選ばれたその言葉達は、彼の誠実な思いを伝えるためのもの。自分の想いに真剣に向き合ってくれるというその言葉に、フェリシアー ノは少し泣きそうになりながら、こくりと頷いた。
「うん、そうして。・・・ありがとう」
「了解した。・・・しかし、その、本当に良いのか?」
「何が?」
一体何に対しての「良い」なのかが解らず首をかしげると、男は苦笑して言い直す。
「こんな、三十路過ぎの男で良いのか?フェリシアーノ。お前は若いし、才能もあるし、綺麗だ。好きな相手がこんなおっさんでも良いのかと」
「良いんだよ!もう、さっきから何を聴いてたのルートヴィッヒ!ルートヴィッヒに比べたら、二十代の男の子なんて話にならないし、私は貴男だったら三十路 でも四十路でも、年下でも良いの!」
「そうか」
「そうかって・・・へ?」
まだ伝わってなかったのか、と息を切らせていたフェリシアーノは、予想外に落ち着いた返答に拍子抜けして男を見た。その表情は、なんだか少し・・・楽し そう、で。
「・・・ルートヴィッヒ?」
「いやその、疑って悪かった。そう言って貰えるかなとは思ったんだが、一応確認しておきたかったんだ」
「い、ちおって・・・」
あまりの台詞にくちをぱくぱくさせていると、そうだ、と呟いた男がおもむろに席を立った。
一体どうしたのか、と目で追うと、相手は落ち着いた様子でテーブルを回り込んで自分の隣に立って。
「遅くなったが、誕生日おめでとう」
胸ポケットから取り出した包みを差し出す。
小さなラッピングをされたそれを受け取って、中を開くと。
「・・・・かわいい」
これまた小さな、クラリネットをかたどったブローチが姿を現した。手に載せて眺めていたそれを、大きな手がふわりと宙につまみ上げる。
「気に入ってくれると良いんだが」
と良いながら跪き、フェリシアーノのの着ていたタートルネックの胸元に飾った。
(って、いうか、顔近い顔近い!!)
「あ、ありがとう!凄く可愛いし気に入ったよ」
ばくばくと飛び回る心臓を抑えてなんとか笑顔を作ると、目の前の人も良かった、と笑ってくれて。
(・・・オレ、今日死ぬかもしんない)
ドキドキのしすぎで、不整脈とかでて死ぬかも。
そんな事を考えていた所に、そっと両手を握られて意識を戻すと、真剣な瞳が自分を見ていた。
「ルート、ヴィッヒ・・?」
「返事は、お前の卒業の時にする。必ずする。だから、待っていてくれるか・・?」
卒業の時。
その時に、どんな返事があったとしても。
「うん。大丈夫、きっとちゃんと卒業してみせるからね」
「そうしてくれ。・・・馬鹿、そんな顔をするな。少し時間が必要なだけだ。色々と、準備もあるしな」
「準備?」
何の?と聴いても、目の前の人は飄々と答えるだけで。
「フェリシアーノにとって不利になるものでない事は現時点で確約できるが、それ以上の具体的内容については黙秘権を行使する」
「ヴェー・・難しく言ってもダメだよ。つまり秘密って事でしょ」
小さい頃は良く分からなくて煙に巻かれていた様な言い回しも、今となっては効果はない。少しすねた顔をして意訳してみせると、軽く本気で驚いた顔をされ て、少しむっとした。
「お前学んだなぁ・・」
「おかげさまでね。・・・卒業公演、聴きに来てね」
「あぁ。上司に薬を盛ってでも行く」
「真顔で言われると本当にしそうだからヤメテ」
こうして軽口を言い合える関係が、いつまで続くかは解らないけれど。
「大好きだよ、ルートヴィッヒ」
繋いだままの手をぎゅっと握って言えば、自分のそれより大きな手が、柔らかく髪を撫でる。
「俺も、お前が大事だよ、フェリシアーノ」
愛してるって、言ってくれればいいのに。
そう思いながら、髪を撫でる感触を脳裏に刻み込むように、フェリシアーノは目を閉じた。