(3)17歳と27歳
「ーーーイ!ルーイ兄、起きて!!オレ練習あるからもう行くよ?」
自分の肩をゆすり、名前を呼ぶ声に、薄く目をあけると、朝の光に包まれた娘が自分を見ていた。
(・・・・てんし、が いる)
その艶やかな頬に、触れてもいいのだろうか。そろそろと手を伸ばし、頬に触れると、柔らかな感触が、手の甲に伝わる。
「・・・ きれいだ」
思わずそう言うと、天使はまっ赤になった顔で、自分の手をべり、と音がしそうな勢いでひっぺがした。
そして、もー!と、ぽこぽこ湯気を立てながら、何かを自分の鼻先に突きつける。
「寝ぼけてないで起、き、て! もう8時だよ?オレ9時からオケの練習あるんだってば!」
チクタク、と音を立てるその物体は、確かに8時03分を示していて。
「ーーー・・フェリシアーノ!?」
がば、と飛び起きると、相手はうわぁっ!と、到底淑女とは思えない声を上げてのけぞった。
「おはよ、ルーイ兄。・・・昨日遅かったの?」
「お・・おはよう、フェリシアーノ。いや、普通に寝たハズなんだが、な・・」
がしがし、と頭をかき、部屋に視線を巡らせている途中で、パンの良い匂いに気付く。
「朝ご飯・・すまない、今日は俺の当番だったのに」
「うん?あぁ、気にしないでいいよ。出来てるから、食べてね。片づけ宜しく、それじゃオレ行くね!」
何故か視線を合わせずにまくし立て、部屋を出ようとする養い子の腕を反射的に掴むと、「な、なに!?」と焦った声がした。
「いや、その、どうかしたのか?いつもと様子が違うから」
いつもなら、朝からハグだのキスだの言ってくるだろう?
言った途端、びく、と肩が震えた様に見えたのは錯覚だろうか。
タイムラグの後、ビシィ!と音がしそうな指先が、後ろ姿のまま時計を指し示した。
「だ・・・だから、九時からオケ練習だから、遅刻しそうなんだってば!もう、いってきます!」
それだけ言うと、ばたばたと足音も高く居間を駆け抜け、玄関を飛び出す音がそれに続く。
「・・・・・な・・・なんだ・・・・反抗期か・・・・?」
もしかして、異性の家族を疎ましがる時期なのかもしれない。
そう考えて、一人で朝からひっそりと布団の上でしょんぼりする男、御年27才。
玄関を飛び出した養い子は、既に17才になっていた。
(なにあれなにあれなにあれ反則だってば神様〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!!)
全速力で駆け抜ける地下鉄までの道のりが、異様に長く感じる。
胸に自分の楽器ーーークラリネットの入ったケースを抱きかかえ、疾走する背中で、小さなリュックサックが揺れていた。
「・・・つか、昼ご飯に、入れてきた、リンゴが、腰に、あたって、地味に、いたい・・!!」
息を切らせてチケットを買い、地下鉄へと乗り込む。
車両の窓に映る自分の顔は、まっ赤だ。
傍目からみたら、走ったからだと思われるだろうが、それだけでないことは自分が一番良く分かっている。
「・・・・・はぁ・・・なんであんなに色気あるかな寝起きルーイ・・・」
小さく呟く声は、地下鉄のゴォォ、という騒音にかき消された。
戸籍上は、父親。
小さい頃の認識は、叔父。
本人曰く、『従兄弟のお兄さん』
呼び方は、兄。
そんな男を、好きになってしまったと気付いたのは、16才の時だった。
14才の誕生日に、ルートヴィッヒから「何か欲しいモノはあるか」と言われたフェリシアーノは、初めて自分から明確なリクエストをした。
それが、今大事に抱えているクラリネットだ。
ルートヴィッヒの家にある大量のクラシックCDの中で、フェリシアーノの一番のお気に入りが、ベートーベンのクラリネット協奏曲だった。
楽器が高いという事は知っていたので、断られるかも知れないとも思ったが、彼女のお気に入りを知っているルートヴィッヒが、首を横にふるはずがなく。
初めて手にしたその楽器は、黒い胴体に銀色の金具がきらめいて、あっという間にフェリシアーノを虜にした。
クラリネットの経験もあるというローデリヒに吹き方を習い、家でも熱心に練習した。
そして、16才の時、町のユースオーケストラに入団。
それまで一人きり、多くてもピアノと二重奏だったフェリシアーノにとって、オーケストラでの演奏は言葉に出来ない程の経験だった。
オーケストラで広がったのは、演奏の世界だけではない。
勉強は昼間の間に解いた課題を夜、ルートヴィッヒにみて貰い、昼間は家の事と時々散歩と、クラリネットの練習、という生活を送っていたフェリシアーノにとって、同年代の子供とのふれあいは他では得られない時間だった。
ちなみに16才くらいの年頃と言えば、それなりに恋バナとかそういったモノに花が咲くのが女の子の性で。
「ね、フェリシアーノは誰か好きな人いないの?」
練習後、大方の片づけを終え、各々自分の楽器を磨きながら話す中で、その矛先がフェリシアーノに向いたのも、自然な流れ。
「へ?オレ?」
クラリネットを抱えてきょとん、とした彼女に、「そうそう」と他からも声が上がる。
「結構オケの中にもフィー狙ってる人居るらしいよ〜」
「まぁ可愛いもんね。ーーーで、どうなのよいるの?彼氏」
興味津々、と自分を見つめてくる瞳の輝きに、思わずたじろぐ。
「い・・いないよ?」
とりあえず返答すればこの話題は終わりかと思ったフェリシアーノの読みは甘かったらしい。
「じゃあ、好きな人は?いる?」
たたみ掛けてくる質問に、フェリシアーノの頭の中は既にいっぱいいっぱいだ。
「わ・・わかんない」
「わかんないって・・・・じゃあ、『この人とずっと一緒に居たいなあ』って人とかいないの?」
「そうそう、でも近くにいるとなんかドキドキして」
「一緒にいると嬉しいけど緊張したりもして」
「名前を呼ばれると凄く嬉しくなったり」
「キスしたいなぁ、とか、抱きしめて欲しいなぁ、とか思う人は?」
矢継ぎ早に周りから声を掛けられ、目を白黒させたフェリシアーノだったが、彼女達の台詞にぽん、ぽん、ぽん。と浮かんできたのはみんな同じ顔で。
「・・・・あのさ、それってさ」
僅かに頬を赤らめ、金属磨きの布をいじりながら言う少女に、周りから期待の眼差しが注がれる。
「なぁに?言ってご覧」
すでに気分は恋愛相談所のお姉さんである。(同い年も多いはずだが)
「オレの事叱った後に、しょうがないな、って頭撫でてくれる顔が、すごく優しくて、恥ずかしくてまともに見られないのとか」
「うんうん」
「えっと、その、仕事用のメガネかけてるときにこっち見られると、なんか上手く息できなくなったりとか」
「あー、うん」
「時々取っ払ってふわふわ笑ってる顔みると変な感じで、ドキドキしたりとか、する・・・?」
言っていて自分で恥ずかしくなり、顔を伏せたままそろり、と周りを伺うと、何故か周りはみな「はぁ」という顔になっていて。
「・・・なんだ、いるんじゃない、好きな人」
目の前に座っていたフルートの子が、呆れた顔でそう言った。
「へ?」
「だから、その相手が、フィーの好きな人でしょ?で、だれ誰?」
「好きな、人・・・?いや確かにルーイのこと好きだけど、好きな人ってそういう好きじゃないんじゃないの?」
さっきまでの話じゃ、見知らぬ『誰か』と出会って恋をする、のが、普通なんだと。そう思っていたのだが。
「あのね、フィーの場合は見知らぬ『誰か』じゃなくて、そのルーイって人だったのよ。今まで普通の『好き』だったのに、ふとした拍子にそれが特別な『好き』になることだってあるの」
だって、さっきフィーが言ったみたいな、息できなくなったりドキドキしたりって、兄貴相手になることある?
そう言われて、時折トマトを手みやげにやってくる兄を思い浮かべる。
「・・・・・ううん」
たしかに、フェルナンデスの商談についてきた、と言ってスーツを着てきた時には「格好良いなぁ」とは思ったけれど、ドキドキはしなかった。
「ね?フィーがルーイって人を好きなのは、特別なのよ。・・・そっかぁ好きな人いるのかぁ。で、で?その人は今どうなの?」
「ど・・どうって?」
「恋人いるのかって事よ!」
「え・・・」
コイビト。
考えたこともなかった単語に言葉を失った瞬間、指揮者からの声が響いた。
「コラー!もう明け渡す時間なんだ、あと3分でみんな出なさい!」
その声に皆、途中から話に夢中で全く進んでいなかった楽器の手入れを焦り、慌ただしく帰路につく。
駅までの話題は、早くも新しく出来た店の話に移っていて。
笑顔で相づちをうちながらも、フェリシアーノの頭の中はさっきの話題をリピートし続けていた。
(・・・・・・コイビト、いる、のかな・・・・)
地下鉄にゆられ、扉に移る自分をぼーっと眺めながら考える。
ルートヴィッヒは、若い時から(自分を引き取ってくれた時から)仕事でも有望視されていて、だから隣国のカリエド家との商談にも参加していて。
見た目怖いけど笑うと優しい顔だし、体つきも男らしくて格好良い。
厳しいけど自分にも厳しくて、時間に正確で、スポーツもできるし、お菓子作りも上手で、でもたまに抜けてて、
(・・・・・・・・・・・・・・・あれでもてないとか、ありえなくない・・・・?)
どうして今まで気付かなかったんだろう、自分のバカ!
思わず車両の壁にガンガン頭をぶつけたくなるのを、流石にヤバイかなと、おでこを壁にこん。とつけるに留めた。
(でも、今まで女の人と居るとこみたことないよなー・・・・・て、いうか・・・・・!!!!)
その事実に気付いた瞬間、
フェリシアーノはひゅ、と息を呑んで、よろよろと壁にもたれかかった。
その顔は、真っ青。
(こんなでかい連れ子がいたんじゃ、家に彼女なんか連れてこれるはず、ないじゃん・・・・!!!!)
どうしようどうしようどうしよう。
オレ、ルーイに貰ってばっかりだ。家も、居場所も、ご飯も、お金も、クラリネットも、なにもかも。
なのに、オレは奪うばかりで。
もし、ルーイに、好きな人がいたとしたら。
自分は、その障害にしか、ならない。
その考えは、フェリシアーノの胸にぶすりと深く突き刺さった。
あの日、どうやって家に帰り着いたのか、実際よく覚えていない。
ただただショックで、迎えてくれたルートヴィッヒが、自分の顔をみて驚いていた事だけを記憶している。
そして、何があったのかと尋ねる声に、なんでもないよ?と返すと、そんな顔でなんでもないと言われて信じるはずないだろう、と怒られた。
怒っているのに、ルートヴィッヒの目は、自分を凄く心配しているそれで。
練習で、上手くいかないことがあった、と苦しい嘘をついた。
本当の事は、どうしても言えなかった。
ルートヴィッヒの事が好きで。
彼に恋人がいるのかを知るのが、怖くて。
彼の恋の邪魔になっているかもしれないことが、哀しいはずなのに、どこかで喜んでいる自分も、確かに居て。
こんな、彼の恋が叶わない事を喜ぶ様な女が、好かれる事はないかもしれない。
そう思うと、自嘲めいた笑みが浮かんだ。
ルートヴィッヒは、そんなフェリシアーノに何か言いたげではあったが、結局何も言わずに「そういうこともあるさ」と頭を撫でてくれた。
その手の温かさに、またある事実に気が付いて胸が痛む。
(・・・・ルーイが優しいのは、オレが、ルーイの『娘』だから、なんだろうな)
まさしく子供を慈しむ、そんな手に触れられながら、フェリシアーノはぎゅ、と目の前の身体に抱きついた。
コラ、いい年して抱きつくな!とかいう声が上からしたけれど、引きはがされなかったので無視することにする。
彼が『娘』だと思っているのなら、それを利用するのは自分の特権だ。
・・・なんだか、彼への想いを自覚してから、どんどん狡賢くなっている気がする。
「ねぇルーイ兄。オレ、がんばるから」
数時間で格段に狡賢くなった頭で、自分がこれからするべき事を考えた。
ルートヴィッヒはもう結婚してもいい年だ。ぐずぐずしていたら間に合わない。
(がんばって、バイトしてお金ためて、・・・・・この家を、出よう)
そして、もし彼が、好きな人は居ないと言ったら、その時は。
この家を出て、ただの養い子でなくなった自分から、言うんだ。
オレを、恋人にしてください、って。
だから、それまで、
お金をためること。
勉強すること。
いろんな事をしること。
女を、みがくこと。
全部、全部。
「がんばるからね、覚悟しててね」