(8)21歳と31歳
色とりどりの具材を使った、パスタ。
緑が目に鮮やかなサラダと、焼きたてのピザ。
暖かそうな湯気を立てるスープと、ワイングラスには適度に冷えた白ワイン。
デザートは、ルートヴィッヒが焼いた、リンゴのケーキ。
目の前に置かれたワイングラスをとると、義父はそれを目の高さに掲げて見せた。
「二十一才おめでとう、フェリシアーノ。その健康と成長に、心からの祝福を」
向かいに腰掛けた娘も、同じようにワイングラスを掲げ、笑ってみせる。
「出会ってからの十年間、幸せに生きてこられたのはあなたのお蔭です。ありがとう、ルートヴィッヒ」
初めてその声で呼ばれた自分の正しいファーストネームと、普段とは違う落ち着いた雰囲気の言葉に、どくん、と鼓動が跳ねるのを感じて、男は心中舌をうった。
(・・・クソ、まだ治ってなかったのか)
音楽学校へ行く為に、この家を出てから。
・・・いや、その、もっと前から、かもしれない。
学校の休みに帰ってくるたびに、どんどん綺麗になって行く娘を見ると、鼓動が速くなるのを自覚する。
コンサートを聞きに行くたびに、彼女と親しげに話すクラスメイトを見ると、苛々した気持ちになる。
自分の姿を見つけて、花のように笑って手を振るその細いからだを抱きしめて、誰にも見られないところに閉じ込めてしまいたいとすら思う。
この気持ちが、父親としてのものとは違うのではないかという仮説にぶちあたったとき、ルートヴィッヒは速攻でその考えに蓋をして鍵をかけて穴に埋めてその上からコンクリートで舗装した。
その考えが、二度と自分の中に戻ってこないように。
(俺が、万に一つもそんな邪な思いを抱くことがあったら、もう一緒には暮らせない)
(久しぶりにあったから、というのもあるだろう。以前の様に頻繁に顔を見ればきっと治る。治れば一緒に暮らせる)
彼女との暮らしが、自分の日常にどれだけの光をもたらすか、もう既に知ってしまっているから。
失いたく、ない。
「ルートヴィッヒ?どうかしたの?」
じ、と見てしまったのが分かったのだろう、フェリシアーノが不思議そうな表情を浮かべている。
「い、いや。その、呼び方に、驚いてな。 もう、『ルーイ兄』とは呼ばないのか?」
その琥珀色の瞳にみつめられると、舗装したコンクリートの割れ目から何かの芽が顔を出しそうで。少々焦ったのを押し隠すようにそう答えると、相手は照れたように笑ってうなずいた。
(その笑顔が、まだ少し幼さを残したものだったことに、何故か酷く安心した)
「わたしも、もうすぐ卒業だし、ね。少しずつ、変えていこうと思って」
さぁ、冷めないうちに食べちゃおう!
いただきます!と威勢良く宣言するフェリシアーノに苦笑して、ルートヴィッヒもフォークを手に取る。
彼は、このとき未だ知らなかった。
これが、『娘』との、最後の晩餐になることを。
デザートのケーキを、紅茶と一緒に平らげて、食卓には食べ終わった後の食器が並んだ。
折角の誕生日だし、片づけはもう少しゆっくりしてからでいいか。
そう思いながら、テーブルの上でゆらゆらと揺れるろうそくの光を眺めて紅茶を口に含んだときだった。
フェリシアーノが、静かに口を開いたのは。
「ルートヴィッヒ、話があるんだ」
その表情は、とても緊張したそれで。
「どうした、何かあったのか?・・・プレゼントはもう買ってあるからな、高いモノをねだるのは勘弁してくれ」
「わかってるよ、そうじゃなくて。あのね、少し長くなるんだけど、聴いてくれる?」
いつもとはどこか違うフェリシアーノに、なんだか胸がざわつくのを感じる。
それを誤魔化すように軽い口調で言ってみても、相手は話をやめるつもりはないようで。
「・・・・・わかった。最後まで聴くから、話してくれ」
「うん。あのね、あの・・・その、まず、質問が、あります」
「何だろうか」
これはもう、腹を決めるしかないらしい。そう思ってまっすぐに相手を見れば、話を始めた娘は顔を紅くして、こう言った。
「ルートヴィッヒには、今、こ・・・恋人は、い、ますか・・?」
「・・・・・・・・・・・・・・・は?」
すまん意味が分からん、何がいるって?
思わずそう返すと、フェリシアーノはだ、だから!と泣きそうな顔で繰り返す。
「恋人!好きな人!居るの居ないの嘘はなし!Ja oder Nein !?」
「な・・Nein !」
その気迫に思わず背をただし、反射的に答えると、目の前の女性は、ふぅ、と息をついて椅子に腰掛けなおした。
ルートヴィッヒはと言えば、何故そんな事を訊かれたのか理解できず、(そう言えばこいつ変な所で迫力あるんだよな・・・)などと考えている。
さて、一つめの関門をクリアしたフェリシアーノは、次のステップへとコマを進めるべく、深呼吸を一つ。
「そ・・それじゃ、今恋人はいない、んだよね。 好きな人もいない?」
「いい年をして、残念ながら。・・・その、フェリシアーノ、一ついいか?」
なんだか話が見えてきた、気がする。
何故か鬱々とした気分になってゆく自分を自覚しながら、一旦娘の話を遮った。
「えっと、何?」
出鼻をくじかれた形になるが、ルートヴィッヒが何やら浮かない顔をしている事の方が気になって、そう返す。
「その、話とやら、なんだが・・・お前に、恋人が出来た、とかいう類の話か・・?」
もし、そうだとしたら。
いつかは、と覚悟していたとはいえ。
ーーー とても、非常に、これ以上無いほど、最上級に、気にくわない。
(だから、閉じ込めておけば良かったんだ)
ぼそり、と心の奥で聞こえた声に、ルートヴィッヒは全力で聞こえなかったふりをした。目の前のろうそくがゆらり、と揺れるのがまぶしくて目を閉じれば、体の中で激情がうずまいているのを如実に感じる。
(こんな凶暴な感情が、自分の中にあるなんて)
この感情は激しすぎて、溢れ出たらきっと彼女を傷つける。そんな事になるよりは、自分から離れた方が彼女は幸せだろう?
自分に言い聞かせてみても、心の奥底、埋めた穴の奥から、嫌だ嫌だと子供のようにだだをこねる声が、頭の中にガンガンと響く。
頭痛をこらえる様に眉根をよせて、ゆっくりと目を開くのと同時に、ろうそくの向こう側から返事が聞こえた。
「あの、えーと・・・そう、だったら良かったんだけど、さ。ちょっと違う」
違うのか、とホッとする気持ちと、「ちょっと」って何だ、と警戒する気持ちと、全体的な方向性としてはあっているのか、と苛立つ気持ちと。
何とも複雑な気分を味わうルートヴィッヒを知るよしもなく、娘はその表情を引き締める。
ルートヴィッヒに、恋人が居ない、好きな人もいない、と言うことは確認できた。
(実は音楽学校に行く事を決めたとき、一番不安だったのは、自分が居ない間に、彼に恋人と呼べる人が出来てしまうのではないかという事だった。しかし帰省した時に腕を組んで街を歩いたり、最大限の牽制をしていたのが功を奏したらしい。本当によかった)
で、だ。それはいいとして。
問題は、ここからだ。クリアしなくてはいけない関門は、いくつかある。
まずは、自分を、対等に見て貰う為のステップ。
「話を、続けてもいい?」
早くなる心拍を押さえようと深呼吸して言えば、養い親は少し身じろぎしたようだった。
しかし返事はなく、沈黙を肯定ととって話を進める。
「あのね、驚くかもしれないんだけど、怒らないで聴いて。お願いが、あります」
がんばれ、がんばれ、がんばれフェリシアーノ!
微かに震える手で、用意してあった封筒から書類を引き出し、テーブルの上に静かに広げた。
それを見たルートヴィッヒの目が、静かに見開かれるのを見つめながら、彼女は口を開く。
「養子縁組を、破棄、してください」
まさか。そう語る菫色の瞳が、自分を映していた。