「だいたい、あんなコトいうつもりなかったんだっつんだばかやろぉー」
殆ど人のいない夜の公園のベンチに腰掛け、多少ろれつの回らない舌で告げられたセリフは、聴くべきモノの耳に入ることなく、初冬の空に消えた。
寒さに負けずに襲ってくる睡魔と闘いながら、つらつらと考える。
どうしてこうなってしまったんだろう。
何を間違ったんだっけ。
「思い当たるトコがおおすぎる・・・」
でも、一番初めの間違いは、きっと。
そこまで考えて、
「・・・・・・・・ねむ・・・・・」
頬をなでる冷たい風を心地よく感じながら、青年は意識を手放した。
事の起こりは、大家である女主人が、友人と共に3泊4日の温泉旅行に出てしまったことだった。
いつも玄関に一番近いリビングで、編み物や読書をしながら、しっかりとした存在感を放っていた女性が居ないという事実が、この家の中に下宿生二人きり、という状況をより際だたせていた。
「なぁ坊ちゃん」
「ーーなんだよ」
部屋の中にいるのがいたたまれなくなって、夕方まで庭の手入れをしていたアーサーに、頭上から声がかかる。
(俺は逃げてなんかないんだからな、そろそろ庭も冬支度しないといけないし・・)
「今日の夕飯、どーするよ?」
「・・・あ?夕飯はお前の当番だろ。適当に作れよ」
降ってきた疑問符に、ポプラの若木の間から二階の窓を見上げれば、自分を見下ろす金色の頭。
窓辺に頬杖をつき、髪を軽くなびかせたその姿は、
(本当に、認めるのは癪以外の何者でもないが、顔だけは良いんだよなあの変態め・・・)
思わず舌打ちすると、二階の人影がくすりと笑う気配がした。
「何だよまだ何かあんのか?」
「いやいや、そうじゃなくてさ。折角大家さんも留守だし、外に飲みに行くのも悪くないかな〜、と思って」
こないだ料理が美味い店みつけたんだ、
と続ける男に、アーサーはふぅん、と返事をすると、目の前の球根を掘り起こす作業に意識を戻す。
「え、おい坊ちゃん?」
「別に、たまには良いんじゃねぇの?俺は別に、勝手に作って勝手に食うし。行ってこいよ」
水仙はこないだ縛っておいた分で最後だったな、来年はここにクロッカスも入れよう、そう考えていると、頭上からやや焦ったような声がした。
「行ってこいって・・・お前も一緒に行くんだよ。一人で行ったって、お兄さん寂しい人じゃない」
「ーーーーーはぁ?」
きっかり三秒後。
がばり、と音がしそうな勢いで自分を振り仰いだ碧色に、フランシスはにこりと笑い返した。
「な、一緒に飲みいこうぜ。折角同じ下宿先なのに、俺たちまだ二人で飲んだことねぇじゃん」
「・・・・・・」
「ご飯もだけど、ワインも色々揃ってて良い店なのよ?食後にコーヒーも頼めるし」
「・・・・・・」
「ねぇ一緒に行こうよ、坊ちゃん。イギリスー。アーサー?」
「っその名で呼ぶな!ーーー食後は紅茶、だからな」
苦々しげな声で球根を掘り返しながらそう言った相手の耳がまっ赤になっているのを眺めて、フランシスは実に満足げに微笑む。
「りょーかい。じゃあ6時半出発でいいな?普通の飲み屋だからまぁ、普通に清潔な格好で」
言外に「土まみれで行くなよ」と匂わせると、すかさず庭からスコップが飛んできた。
「な?美味いだろ」
案内されるまま到着した店で、パエリアを前に自信満々に笑う男。
ふんだんに海の幸をつかったその料理は、確かに味付けもしつこくなく、美味しいものだった。が。
「美味い、けど。・・・・・なんかもの足りねぇな」
ぼそり、とつぶやくと、目の前の笑顔が少し引きつった。
それに気付かないアーサーは、もぐもぐと言葉を続ける。
「なんだろう、味付けとかは良いんだけど、貝とかが・・・なぁ、こないだ作ってた魚介料理あっただろ?」
まったくこの眉毛は折角人が美味しいもの食わせてやろうと思ってつれてきたのに、文句しか言えないのかねあぁでも素直に「うん美味しい!」なんて言うアーサーはアーサーじゃねぇな、それはただの眉毛であってアーサーではない気がする、うん。
ごめんねーイカちゃん折角美味しい料理になったってのにこんな眉毛に食べられることになっちゃって。
などと考えながら自分の皿のイカの輪切りを見つめていたフランシスは、もちろんそんな問いかけなど聴いていなくて。
「おいコラ何と交信してんだヒゲ!」
返事が無いことに苛立ったアーサーにゴスっ、とテーブルの下の臑を蹴られ、涙目で相手を見やる。
「いってーなお前・・・ちょっとは手加減、いや足加減?まぁどっちでもいいからしろよ。で、何だって?」
「だから、料理。お前がこないだ作ってた魚介料理、何入れたって訊いてんだ」
「あ・・あぁ、アレ?何っていうか・・普通にオリーブオイルとか、バジルとか、ワインとかそんなモノしか入れてないけど?」
「あれの方が、俺は好きだった」
それがどうした、と言った自分の言葉に返ってきた言葉は、到底目の前の青年から発せられたモノとは思えないそれで。
「・・・はい?」
思わずぱーどぅん?と聞き返すと、口に放り込んだイカリングを飲み込んで、白ワインを一口飲んで、青年は繰り返す。
「ここの魚介料理も美味いけど、俺はお前がこないだ作ったやつの方が好きだった、つってんだよ。わかったらまた作れ」
至極偉そうに、3歳年上の自分に命令する口調にも、頬がゆるむのを止められない。
「ーーー仰せとあれば、いくらでも。なぁ、他にまた食べたいヤツってある?」
いつもだったら絶対答えてくれない質問にも、今なら答えてくれそうな気がする。そう思って訊くと、思った通り目の前の青年はへにゃりと笑って「えっとなー先週食べたビーフシチュー美味かった。あとデザートはどれも美味いから、お前のレパートリー全部食わせろ。それからなー」と料理の名前を連ね始めた。
その様子はいつもの彼からすると、当社比350%程棘がない。
しかも、思い出しては注文する料理の名前は尽きることが無く、店を出て帰る道すがらにまでおよんだ。
「ーーーで、やっぱ一番はアレだな、お前が初めて来たときに作った料理。ラムのワイン煮込み!」
くるり、と身体ごと振り返って「お前が言えっていったんだからな、今まで俺が言った料理全部つくれよばかぁ!」けらけらと笑いながらそう言う青年は、どこからどう見ても完璧な酔っぱらいだ。
しかしフランシスにはそんな事は気にならない。もっと気になる事が他にあったからだ。
「・・・・・なぁ坊ちゃん、もしかしてもしかすると、今まで俺が作った料理全部覚えてたりすんの・・?」
恐る恐るそう尋ねると、けらけらと笑っていた青年が、きょとん、と動きを止める。
そして返ってきた言葉は。
「あ?んなの当たり前だろ」
いやいやいやいやいやいやいやいや。
あんたそれ結構大変なことですよお兄さん!!!
「あ・・・当たり前、ってお前・・・」
口をあんぐり開けていると、「なんだそのツラー!」と、またけたけたと笑い出す青年。
こいつ、ただの庭バカだと思ってたけどそう言えば医学生だったな。
そんな事にようやく気付いたあたり、フランシスもある程度酔っている。
「はー・・流石医学部生だけあるわ。記憶力半端ねぇ」
患者さんの情報とか覚えるの得意だろお前。医者向いてるなぁ。
そう言うと、けたけた笑っていた相手が、再びぴたりと動きを止めた。
「ん?どうした?」
「・・・・・・・・・・ねぇし」
俯いて何か言う声は、小さすぎて聞こえない。
「何だって?」
「だから、医者やりたくて医学部入ったんじゃねぇっつってんだクソヒゲ!」
「のわっ!?」
がば、と顔を上げた相手は、ついでに拳も上げていて。すんでの所で避けると、避けんなばかぁ!とののしられる。
「いや、それ中ったらマジ痛いから!つか医者やりたくないならなんで医学部よ!?」
成績良いだけで特に動悸もなく医学部入るとか最悪だぞお前!
そう言った途端。翡翠色の瞳が、ゆっくりと大きく見開かれて、
「ちょ、」
さぁ、と蒼くなった顔で、青年はぽつりと言った。
「お・・・お前がそれを言うのか・・?」
「え?」
「俺の志望は、お前が一番良く知ってるはずだ・・・」
「・・・は?いや俺聴いた事ーーー」
「もういい!俺は全部覚えてる、お前が言った言葉も、お前の料理も全部だ!なのにお前は何一つ覚えてない!!俺は、俺は、お前の言葉で人生を決めたのに!ーーーバカ野郎ヒゲワイン!リンゴ喉に詰まらせて死ね!!!」
絶叫と共に、強烈な回し蹴り。
台詞の内容に気をとられて避け損ねたフランシスは、腹を蹴られて軽く吹っ飛ぶ。
視界が一瞬真っ暗にそまり、星が散った。
しばらく蹲った後、ふらふらと立ち上がると、見渡す道に青年の姿は既に無く。
「アーサー・・?」
名前を呼ぶ声は、肌寒い初冬の空気に拡散して、消えた。
研究が、したい。
そう、打ち明けたときの父親の顔を、アーサーは死んでも忘れないと思う。
「研究で食べていけるのはほんの一握りだ。バカな事を言っていないで医学部に行きなさい」
それとも何か、ミジンコや粘菌と一緒に餓死する覚悟でもあるのか?
その言葉は、紛れもなく「医学部以外に進むのなら一切金は出さない」という脅しを含んでいて。
アルバイトもしたことがない、特技といえば庭いじりだけ。
そんな何の免許も資格も持たない子供には、親の良いなりになる以外に道は無い。
そう、わかっては居ても、どうしても納得出来なかった。
「俺は他人と関わるのが得意じゃない、そんな事自分でわかってる。俺よりももっと、患者さんの事を考えて、患者さんの為に働ける、良い医者になるヤツは絶対にいる。医者をしたいわけでもない俺が入って、その分そういう、俺より医者に向いてるヤツが落ちるなんてバカなことがあるか!」
家から少し離れた、小高い丘の上の、木の上で。
小さい頃から昇り慣れた枝の上に座りこみ、アーサーはリンゴを囓りながら呟いた。
このまま親の言いなりに医学部に入って、何の情熱もなく医者になるのが、とてつもなく恐ろしかった。
いつか、誰かを自分の中途半端の所為で死なせてしまうかも知れない。
だからといって、年末年始に貰える祖父母からのお小遣いを貯めた金程度では、到底受験費用にはならない。
浪人したら家を出て貰う、と真顔で言い放つ父の言葉は、冗談とは思えない。
「どうしろって言うんだばかぁ!!」
腹立ち紛れに投げ捨てたリンゴの芯の飛んでいった先から。
「いってぇ!うわ何コレりんご!?」
人の声がしたときには、驚きすぎて木から落ちそうになった。
それから、木の根本まできて寝ころんだ人影に、大丈夫だったかと声を掛けると、あー大丈夫大丈夫。と笑った雰囲気が、とても柔らかくて。
気が付いたら、自分が悩んでいたことを、初めてあったその人に全て話していた。
一人は木の下で、幹に上半身を預けて。
一人は木の上で、枝の分かれ目に座り込んで。
互いの顔を見ることなく、声だけが二人の間を行き来した。
そして、木の下から、木の上へ。
木の上の青年の、人生を決めるヒトコトが届く。
「つーかさ、研究やりたくて医学部行かなきゃいけないなら、医学部で研究すりゃ良いんじゃないの?」
親も納得、お前も研究できて万々歳だろ?
「・・・・・・は?」
思わずぽかん、と返事を返すと、木の下から「だから、は?、じゃなくてさ」という声が聞こえる。
「結構コレ知られてないけど、医学部の中にも『基礎医学』っつー分野があって。研究を専門にするドクターも居るんだぜ?今は臨床にばっかり学生が流れるから、研究とか基礎とか行きたいって言えば教授達大喜びするだろうしさ」
オススメだぜ〜?わざわざ理学部とかから研究のために来る人たちもいるし。
そう続ける声に、思わず待ったを掛けた。
「ちょ、あんた医療関係者なのか!?それ本当なんだな、信じていいのか!?」
「疑うねぇ。俺、大学で染色技師って仕事してんの。そういう研究をするドクターからオーダーされた染色をする仕事、だから現場のナマの声よコレ」
ま、その気になったら是非研究しに医学部来てちょうだいな、と言い残し、腰を上げて立ち去ろうとする背中に、アーサーは夢中で声をあげる。
「だ・・大学って、あの山の上の大学病院があるトコか!?」
「うんそう」
じゃーねー、そのうち研究室で会えるといいね青年!
ひらひらと手を振りながら去ってゆく後ろ姿、その髪が揺れるのを、アーサーは見えなくなるまで木の上から見送った。
その後、ひらりと木から下りると、家へと走る。
そして彼はその晩、父親に「医学部に行く」と宣言したのだった。
それ以来、アーサーはあの助言をくれた人の声を、髪を、後ろ姿を、忘れたことは無かった。
入学してすぐ、医学部研究棟へと足を運び、入学前に調べておいた基礎医学講座の教授に、実験の手伝いをさせて欲しいと頼み込んだ。
もちろん、教授達は大喜びで、色々教えてくれた、けれど。
どの講座の染色室を覗いても、あの蜂蜜色の金髪は見つけられなかった。
「どっかに、移動になったのかな・・・それとも」
辞めちまった、のかな。
今度会ったら、あんたのお蔭で将来が見えた、ありがとう。そう、言おうと思っていたのに。
そう思いながら、医学部の勉強を続け。
来春から臨床実習が始まる、という頃になって。
彼は、思いもしない形で、自分の前に現れた。
「つっても全然覚えてなかったけどなあのヒゲ野郎・・・」
ここまで走ってきたせいか、コートの下の身体が汗ばんでいる。
コートの前を開けてベンチに座ると、頬をかすめる風が心地よかった。
とても、心地よかった。
というわけで、英と仏のファーストコンタクト実は編&英が何故医学部に言ったか編、でした。
医学生シリーズで仏英書こうと思ったときに、はじめに思い浮かんだのが、英が木の上で、仏が木の下で話してる場面でした。
えーと、基礎医学というのはホントにありまして、学生がなかなか基礎に進んでくれないのも本当みたいです。
病気の原因の研究とか、そこから新しい治療法を探したりとか、臨床とはまた違って、とても大事な分野らしく。
学年では少数派だろうけど、英基礎ガンバレよ!(笑)
09.09.30 伊都
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