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 荷物は昨日までにすっかり運び出してしまった。
 玄関の扉の前で、彼女は俯いたまま、旅行鞄だけ片手に提げている。暫くそれを凝と見ていたこの屋敷の主が、口を開いた。
「ハンガリー。」
 名前を呼ばれて、彼女は肩を震わせる。けれど顔を上げることが出来ない。何を言ったら良いのか、彼女には分からなかった。
 彼女は今日、ここを去って行く。外にはもう彼女の国の、迎えと護衛の人達が待っていた。以前までここに居た他の仲間たちと同じように、今日、自分の本来の居場所に帰る。漸く帰ることが出来るのだ。だから、それは凄く嬉しい筈なのに。
 どうして自分は今、こんな途方に暮れたような気持ちでここにいるんだろう。
「ハンガリー。」
 もう一度、今度は少し、困ったような声で名前を呼ばれた。この人を困らせたくなくて、ハンガリーはのろのろと顔を上げる。眼の前の男の人が、小さく苦笑した。
「そんな顔をするものではありません。晴れの門出ですよ。」
「……はい。」
 自分がどんな顔をしているのか分からない。ただ、笑顔を作れていないことだけは分かった。自分の居場所に帰ることが出来る。けれど、この人と離れていかなくてはならない。そうなるのが自然なことだって、分かっているのに。
「私はもう貴方の、その、えー、お、夫では居られませんが。」
 胸が苦しい。ここから離れる日が来るなんて、本気で考えたことなんてなかった。
「これからも、隣人ではあります。」
 だってもうずっと長い間、私はここで暮らしてきたのに。この人の一番近くに。ずっと一緒に居たのに。ずっとこの人の側に居たのに。今日からは違う道を進まなきゃいけないなんて。
「あなたの家もこれから大変でしょう。何か困ったことがあったら……何でも、と言えるほど我が家も楽ではないですが、私に出来ることがあったら言って下さい。力になれたら、私も、嬉しいですから。」
 言葉を切って、彼がハンガリーの瞳を見つめる。ハンガリーの肩がまた小さく震えた。彼は酷く穏やかに微笑んでいる。運命を受け入れた殉教者のような、静かな笑みだった。
 悔しさと無力さで、ハンガリーは拳を握り締める。そうじゃない。そうじゃないの。
「あなたがずっと、私の力になって下さったように。出来ることなら、私もあなたの力になりたいですから。」
 こんな顔をさせたくて、ずっと一緒に居たんじゃないのに。彼の力に、なってきたわけじゃないのに。
 生まれた時から、歴史に流される自分達の役目を知っていた。知っている。それでも今、こんなにも自分の無力さが悔しい。
「オーストリア、さん……。」
 何を言ったら良いのか分からなくて、縋るように、搾り出すように、ただ彼の名前を呼んだ。
 この言葉だけで全て伝われば良いのに、と思う。在るべき場所に自分は帰る。けれどこの人をここに置いていく。このどうしようもない気持ちが、全部この人に伝われば良いのに。誰か。どうか、お願い。
 だってもう、伝えたい言葉一つ見つけられないの。
 否応なしに迫る時間に背中を押されるように、ハンガリーは彼の瞳を見つめた。眼鏡のレンズ越し、大好きな菫色の瞳。
 ああこんなに愛しいのにどうして。
「お世話に、なりました。」
 別れの言葉を口にするんだろう。せめて、と作った笑顔は失敗してしまったのだろうか。
 彼が顔を歪めるのが見えた。
 不意に彼の手が伸びて、強く腕を引かれる。彼の瞳に映っていた筈の自分の顔を見る暇すらなかった。あっという間に彼の両腕の中に閉じ込められて、彼の肩しか眼に入らなくなる。だからこの時、彼がどんな表情をしていたのか、ハンガリーは知らないままだ。
 ただ背中が軋むほど強く抱き締められた、そのことだけを覚えている。
 別れの挨拶には有り得ないくらい、熱くきつい抱擁だった。
「ハンガリー。」
「はい。」
 名前を呼ばれて、答えた瞬間、堪えていたものが瞳から溢れた。透明な雫が頬を伝って彼の肩に落ちて服に染みを作る。抱き締める彼の力が強くなった。きつくて息が出来ないほどだった。けれど彼の背中を同じくらい強く抱き返す。もう息なんか出来なくたって良いと、本気で思った。
「……ハンガリー。」
 耳のすぐ側で囁かれた声が微かに震えていたのを、彼の腕の中で、ハンガリーは信じられないくらい幸福な気分で聞いた。今この瞬間世界が終わってくれたら、どんなに幸せだろう。離すものか、とでも言うようにきつく抱き締めるその両腕が愛しい。跡が残れば良いのに。もうすぐ離れなければいけなにのなら、せめて。消えない跡が残れば良いのに。
「オーストリアさん。」
 うわごとのようにその名前を呼ぶ。
「オーストリアさん……!」
 このまま時間なんて止まってしまえば良い。そう、強く願った。